(千葉・外房)

菅沼建築設計

 

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Q:自由設計の注文住宅でありながら低価格を実現をしているメーカーの家はどれも同じで不思議です。自由なのに。

菅沼:これは本当に不思議な現象だと、私も以前から思っていました。

 『設計』の項とも重なる部分が多い話です。

 自由といっても、家は構造物です。まず最初に構造的な制約を受けます。このルールを無視した自由はありえません。建たないからです。木造なら、よほどアクロバティックなことをしない限り、同じ構造ルールに従うのですから、同じ形態的印象を与えることになります。自然の摂理に従うという意味では「自由」ではありません

 

 次に、建物が「みんな同じだなぁ」という印象を与える原因は、使っている材料が同じ、特に外壁に使われている「窯業系サイディング」が醸し出していると思われます。窯業系サイディングが使われている理由は、メンテナンスフリーであること・防火構造をつくりやすいこと、の2点が理由と考えられます。防火に関しては外的要因が強く働いており、「自由」とは言いがたい部分です。

 

 「みんな同じような家」であっても美しい町並みを形成していると認められるかつての農村や町屋は、形態も材料もみんな一緒です。これらと今の町並みは随分印象が違います。同じような家が並んでいるようでも、その町並みは必ずしも美しいとはいえないということに多くの人が同意するだろうと、これもまた多くの人が同じことを考えているようです。これが問題なのだと思います。

 

 同じ家でもいいのです。私はそう思います。家を生活の道具と割り切る自由、そこに純粋芸術的自己表現を持ち込む自由、家を持たない自由、どれも道は開かれています。それは施主次第です。

 

 自由設計という言葉が適応される範囲が実は限定的範囲である、ということを明記すれば、とりあえずは嘘が減ります。

 そして、その限定の範囲内で、言葉にしにくい美しさと建設費用の問題に取り組んで、さらに個性を出して次の施主に注目してもらう。設計屋はこんな困難な仕事に取り組んでいるのです。(2011,6,3)

 

 

 

 

別の視点で「注文住宅」という概念を考察してみます。

 

 「注文住宅」という作り方はいつから出来上がったのでしょうか?

 世界的に見ても稀なこの「注文住宅」という仕組みの価値を一度疑ってみることは、これから家を建てようと考えている人にとって無駄ではないでしょう。それは「自由な設計」が本当に存在するのか、「自由な設計」にどれほどの価値があるのか、という疑問を持つことです。 

 

 世の中の多くの施主は、自分の家を建てる経験を一生の間に何度も持てる訳ではありません。自分の家を自分で考えるという道を選択すれば、初めての経験として一から自分の家を考えなくてはならないのです。間取りの発想・構造のルール・法令の知識・土地の問題・・・全てを施主が決定するまでにはかなりの時間が掛かるでしょう。施主が学習に要する全ての時間に設計者が関与するとしたら、それは設計費に直結します。設計費とは、専門技術者の時間を買うことです。少しでも安くしたいのであれば、設計に費やす人件費を減らすことは考えられないことでしょうか?

 

 自由に設計したつもりでもほとんど同じ結果になってしまうということは、いかに設計の制約が多いか、発想がいかに共通イメージに基づいているか、ということの表れではないのでしょうか。

 

 家が奇抜である必要はないと思います。高いお金をかけてまで他者と違っている家を建てるという行為自体に大した意味があるとは思えません。

 要は、家そのものよりも、生活の方が人間にとってはるかに重要だと考えるからです。そのためのささやかな工夫が「注文」されるのです。

 

 「注文住宅」「完全自由設計」・・・「あなたの思いのままに」という卑屈さでもって注文主に媚びへつらう「受注側の屈折」をこの言葉に感じませんか?

 

 結論は、

 「周りと同じ家でも別にいいのではないか。」

 「高い設計費と引き換えに、個別に注文することにどれだけ意味があるのか。」

という2点について、施主一人ひとりが自問自答して、自分の意見として語れることが必要ではないかといういうことです。(2011,6,9)